マミートラックの罠:仕事と育児、なぜ女性だけの課題?
「仕事と育児の両立」が多くの家庭で女性に偏った課題となるのは、個人の能力や選択の問題ではありません。その背景には、①根強い性別役割分業の価値観、②長時間労働を前提とした企業文化、③男性の育児参加を阻む障壁という、社会・企業・家庭に根差した「構造的な問題」が存在します。この記事では、データと共にこの構造を解き明かし、企業や海外の先進事例、そして私たち個人ができる具体的な解決策までを掘り下げていきます。
なぜ「仕事と育児の両立」は女性だけの課題になるのか?
共働きが当たり前になった現代でも、出産を機にキャリアの停滞や働き方の変更を余儀なくされるのは、圧倒的に女性が多いのが現実です。多くのワーキングマザーが直面するこの課題は、一体どこから来るのでしょうか。
「マミートラック」という見えない壁
出産・育児を機に職場復帰した女性が、本人の意欲や能力とは無関係に、昇進や重要な業務から外され、キャリアが停滞してしまう現象を「マミートラック」と呼びます 。まるで陸上競技のトラックを周回するように、同じ場所をぐるぐると回り続けるだけで、キャリアが前に進まない状況を指す言葉です 。
この言葉は、もともと1980年代のアメリカで、育児中の女性を支援するための柔軟な働き方の選択肢として、ポジティブな意味で提唱されたものでした 。しかし、日本では「一度乗ると抜け出せないキャリアの停滞コース」というネガティブな意味合いで使われることがほとんどです 。良かれと思って行われる「配慮」が、結果的に本人のキャリアの可能性を奪う「罠」となっているのです。
データで見る圧倒的な負担の偏り
この問題の根深さは、具体的なデータにも表れています。
総務省の調査によると、6歳未満の子どもを持つ夫婦の1日の家事・育児関連時間は、妻が平均7時間28分であるのに対し、夫はわずか1時間54分です 。この約4倍もの時間差が、女性が仕事に使える時間とエネルギーを根本的に制約しています。
この負担の偏りは、女性のキャリアに直接的な影響を及ぼします。第一子の出産を機に離職する女性の割合は、依然として約3割にのぼり 、調査によっては46.9%に達するという報告もあります 。近年、就業を継続する女性は増えていますが、その多くが正社員からパート・アルバイトなどの非正規雇用へと移行する「L字カーブ」という新たな課題も浮上しています 。
マミートラックを生み出す3つの構造的要因
なぜ、これほどまでに負担が女性に偏ってしまうのでしょうか。その原因は、社会、企業、家庭それぞれに根付いた構造的な要因にあります。
社会の呪縛:根強い「育児は女性」の価値観
日本社会には、「育児や家事は女性が担うべき」という性別役割分業の意識が依然として根強く残っています 。この無意識の価値観は、職場の上司が「母親は大変だろうから」と責任の軽い仕事を割り振る一因となります。
さらに、この社会的期待は女性自身にも内面化され、「良い母でなければならない」という「こうあるべき呪縛」として、心理的な負担となることも少なくありません 。仕事に集中することへの罪悪感や、育児を完璧にこなさなければというプレッシャーが、自らキャリアのアクセルを緩めることにつながってしまうのです。
企業の壁:長時間労働と旧態依然の評価制度
日本の多くの企業文化や制度は、時間的制約のある従業員、特に育児中の母親にとって不利に働くようにできています。
- 長時間労働が前提の文化: オフィスに長くいることが評価につながる文化は、子どもの送迎などで定時退社が必要な母親を「意欲が低い」と見なしがちです 。
- 不公平な人事評価: 評価基準が労働時間の長さに偏っていると、時短勤務者は成果を出していても正当な評価を受けにくくなります 。これが昇進・昇給の機会を奪い、マミートラックを固定化させてしまいます 。
- コミュニケーション不足と無意識の偏見: 管理職が本人のキャリア意欲を確認せず、一方的な「配慮」で業務内容を決めてしまうケースは後を絶ちません 。これは、「母親は責任ある仕事を望まないだろう」という無意識の偏見(アンコンシャス・バイアス)が原因です 。
家庭の不在:男性の育児参加を阻む障壁
マミートラックが「女性だけの問題」となる最大の理由は、もう一方の当事者である男性が、育児の領域から制度的・文化的に遠ざけられていることにあります。
男性の育児休業取得率は年々上昇しているものの、女性に比べて著しく低く、取得したとしても期間が2週間未満であるケースが約4割を占めます 。その背景には、「育休を取ると収入が減る」という経済的な懸念 や、「同僚に迷惑がかかる」「評価に響くのでは」といった職場からの見えない圧力があります 。
また、男性用トイレにおむつ交換台が少ないなど、社会のインフラ自体が男性の育児参加を前提としていないことも、この問題を根深くしています 。
悪循環から抜け出すための具体的な解決策
この複雑な問題を解決するためには、企業、社会、そして個人がそれぞれの立場で行動を起こす必要があります。ここでは、具体的な解決策を見ていきましょう。
企業の挑戦:先進企業の取り組み事例
マミートラック問題の解決に本気で取り組む企業は、着実に成果を上げています。
資生堂
従業員の8割以上が女性である資生堂は、法定をはるかに超える手厚い両立支援制度を整備しています。例えば、時短勤務は子どもが小学校3年生を終えるまで利用可能で、いわゆる「小1の壁」にも対応しています 。特筆すべきは、時短勤務者の代わりに夕方以降の業務を担う「カンガルースタッフ」制度 。これにより、本人の罪悪感や周囲の負担を軽減し、制度を気兼ねなく使える文化を醸成しています。
メルカリ
メルカリは、福利厚生制度「merci box」を通じて、妊活から育児、介護までライフサイクル全体を包括的に支援しています 。産休・育休初期の給与100%保障や、認可外保育園・ベビーシッター費用の補助など、経済的な不安を徹底的に取り除く姿勢が特徴です 。また、本人や家族(ペットも含む)の病気や怪我のために取得できる有給の「Sick Leave」制度は、ケアを「母親だけの特別な事情」ではなく、「誰にでも起こりうること」として捉えるインクルーシブな企業文化を象徴しています 。
社会の変化:2025年施行の改正育児・介護休業法
個々の企業の努力だけでなく、社会全体のルールも変わり始めています。2025年4月から段階的に施行される改正育児・介護休業法は、大きな一歩です 。
主なポイントは以下の通りです。
- 柔軟な働き方の拡充: 3歳から小学校就学前の子を持つ従業員に対し、企業はテレワークや時短勤務など複数の選択肢を提示し、従業員が選べるようにすることが義務化されます 。
- 残業免除の対象拡大: 残業免除を請求できる子どもの年齢が、現行の「3歳未満」から「小学校就学前」まで引き上げられます 。
- 子の看護休暇の拡充: 対象となる子どもの年齢が「小学校就学前」から「小学校3年生まで」に拡大され、学級閉鎖や入学式などの学校行事も取得事由に追加されます 。
- 個別の意向聴取の義務化: 企業が従業員本人に対し、仕事と育児の両立に関する意向を確認し、配慮することが義務付けられます。これにより、一方的な「配慮」によるマミートラック化を防ぐ狙いがあります 。
海外から学ぶ:父親の育児参加を促すヒント
海外に目を向けると、より大胆なアプローチが見られます。
スウェーデンでは、父親専用の育休割り当て「パパ・クオータ」制度を導入しています 。これは、父親が取得しなければ権利が消滅する「使わなければ損」という仕組みで、男性の育休取得率は9割近くに達しています 。
フランスはさらに踏み込み、父親の出産休暇の一部(7日間)を「義務化」しました 。これにより、育休取得は個人の選択ではなく、法的に守るべきルールとなり、職場の同調圧力を無力化しています。
私たちにできること:個人・家庭で始める一歩
制度や環境の変化を待つだけでなく、私たち一人ひとりにもできることがあります。
家庭での対話と協力体制の構築
すべての土台となるのが、パートナーとの協力です。ある調査では、仕事と育児の両立のコツとして8割の人が「パートナーとの協力」を挙げています 。出産前から、お互いのキャリアプランや家事・育児の分担について具体的に話し合い、協力体制を築くことが、産後の危機を乗り越える鍵となります 。
職場でのコミュニケーションと意思表示
復職する際は、上司との面談などで自身のキャリアに対する意欲や希望を明確に伝えることが重要です 。制度の有無以上に、上司や同僚の理解といった職場の人間関係が「働きやすさ」を大きく左右します 。「どうせ分かってもらえない」と諦める前に、まずは自分の考えを伝えてみましょう。
「こうあるべき」から自分を解放する
仕事も育児も完璧にこなそうとすると、心身ともに疲弊してしまいます。アメリカの働く母親たちは、市販の離乳食や便利な家電を積極的に活用し、料理や家事に時間をかけるよりも家族と過ごす時間を大切にする傾向があります 。惣菜や冷凍食品、家事代行サービスなどをうまく活用し、「こうあるべき」というプレッシャーから自分を解放してあげることも、
仕事と育児の両立を長く続けるための大切な知恵です 。
まとめ
マミートラックは、個人の努力不足ではなく、社会や企業が抱えるシステムの歪みが原因で生まれる構造的な問題です。この罠を解体するためには、企業が評価制度や働き方を根本から見直し、社会が法制度を通じて男性の育児参加を強力に後押しし、そして私たち個人が家庭内での役割分担や職場でのコミュニケーションを見直すという、多角的なアプローチが不可欠です。
「育児」が特定の性のキャリアを阻む要因ではなく、誰もが通るライフステージの一部として当たり前に受け入れられる社会へ。その変化は、すでに始まっています。
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