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サイレントヒーローズ 大江慎一

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目次
📝 第一章 :報道の頂点から落ちる音 📝 第二章 :名もなき日々、誰にも呼ばれない声 📝 第三章 :カフェの静けさに、声が届いた日 📝 第四章 :再び“声”で人とつながる日々 📝 第五章 :かつての自分との再会、そして選択 📝第六章 :静かな扉の、その先に

📝 第一章

:報道の頂点から落ちる音

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深夜2時。都心のテレビ局の編集室には、蛍光灯の白い光とモニターのちらつきだけが静かに漂っていた。

報道局の一角、コーヒーと締切の匂いが染みついた狭いデスクに、ひとりの男がいた。

大江慎一、63歳。

かつて“報道の顔”と呼ばれた男だ。

鋭い眼差しと低く響く声、事件の核心を突くコメントで視聴者の信頼を集め、夕方の全国ニュース番組のメインキャスターとして、15年以上のキャリアを誇った。

「この国のニュースは、あの人の声で締まる」

そう言われていた時代もあった。

だが今、その声は、誰にも聞かれていない。

──ここは、かつての記憶の中だ。

彼が現役だった頃の、最後の“現場”。

原稿には、環境省の不正支出に関するスクープが並んでいた。

番組史上最も攻めた特集だった。省庁内部から匿名で提供された資料、現場職員の肉声、捏造された報告書のコピー。

「慎一さん、今回のは本気で刺さります。…大丈夫ですか?」

若手ディレクターが震える声で訊ねた。

大江は、ただ原稿を見つめたまま小さくうなずいた。

「報道に“安全地帯”なんてない。やるならやる。俺の名前で出していい」

それが、彼の覚悟だった。

しかし放送翌週、匿名の情報提供者が自宅マンションで自死していたことが報じられた。

その夜から、大江慎一の世界は音を立てて崩れていった。

SNSは即座に炎上。「自殺に追い込んだ張本人」として彼の顔写真と名前が晒された。

局のメールには脅迫や罵倒が殺到し、局内の張り詰めた空気が一転して冷たい沈黙に変わっていくのを彼は肌で感じていた。

「…あなたの判断で、彼は死んだのでは?」

会議室でそう問うたのは、報道局の上層部だった。

正義の名の下に放たれた報道が、ひとつの命を奪った──

そう断じる者たちの目は、同情よりも恐れと保身に満ちていた。

「責任を取って、降板をお願いします」

それは通達ではなく、命令だった。

その週末、番組からの降板が発表され、代役キャスターの名前がアナウンスされた。

翌月には、契約終了と共に正式に局を離れることになった。

それを最後に、彼の名前はテレビ画面から消えた。

それでも、大江はどこかで思っていた。

「これも一時的な波だ。何年もかけて築いてきた信頼が、こんな形で終わるはずがない」と。

だが、メディアの世界に“元に戻る”という選択肢はなかった。

取材の声はかからず、かつての同僚も距離を置いた。

フリーのナレーターとしての依頼も、やがてパタリと途絶えた。

その年の秋、妻の律子から正式な離婚届が届いた。

「慎一さん、あなたが悪いわけじゃない。でも、私もう“無音の食卓”に耐えられないの」

二人で選んだ六本木の高層マンションも、引き払うことになった。

引っ越しの夜、彼はベッドの上で、かつての録画映像を再生していた。

画面の中で、まっすぐカメラを見据えた自分がいた。

「この国の報道は、誰かの命を守るためにある──その原点を、我々は忘れてはならない」

その声は、今の自分には届かなかった。

息子の康平とはもう2年も連絡を取っていない。

最後に電話をかけたとき、「もう関わらないでくれ」と告げられた。

あのとき、彼は泣かなかった。

ただ電話を切った後、携帯を閉じて、二度と電源を入れなかった。

慎一は、都内のネットカフェで寝泊まりしながら、日雇いの仕事を探す日々を送った。

深夜の倉庫、弁当工場、清掃、皿洗い。

誰も、彼の声に気づかなかった。

「失ってみてわかったよ。俺は“名前”じゃなく“声”で生きていた」

その“声”が今では、居酒屋のざわめきの中に埋もれた。

一度だけ、夜勤明けのコンビニで顔を見られて、「あれ?あのニュースの人…」とつぶやかれたことがあった。

彼はうつむき、逃げるようにその場を離れた。

“見られること”が、怖くなっていた。

報道の頂点にいた男が、誰にも話しかけられず、誰にも名前を呼ばれない場所で生きていた。

自分の“声”を封じたその人生が、いつしか彼にとっての「罰」になっていた。

まだ、自分は声を出してはいけない。

そう思いながら過ごした2年。

しかしこのあと──まったく別の形で彼の“声”が再び人とつながることになる。

だがそれは、まったく予想もしなかった“静かな場所”でのことだった。

📝 第二章

:名もなき日々、誰にも呼ばれない声

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季節は冬に向かっていた。

都内のネットカフェにある簡易ベッド。上着のポケットに丸めたタオルを枕代わりにし、慎一はその夜も身体を縮こませて眠っていた。

隣のブースからはイヤホン越しのゲーム音、背後の壁越しには微かな咳払い。暖房は効いていたが、心の芯はどこまでも冷たかった。

「お客様、10時の退出時間です」

スタッフの声に起こされ、ぎこちなく身体を起こす。

着替えはリュックに1組。クリーニング代も節約し、できるだけ汗をかかないように動いていた。

そんな日々を半年ほど続けたころ、慎一は完全に「誰でもない人」になっていた。

駅前のパン屋で余った廃棄品をもらい、川沿いで昼を済ませる。日雇い労働者が集まるアプリを開き、募集案件を指で追う。倉庫、清掃、ビルの搬入、交通誘導員。

「声を出す仕事」は避けた。

指示に従い、黙って作業する。それが気楽だった。

誰かに説明する必要もない。履歴書も見られない。身元も、過去も問われない。

──便利だな、と思った。

でも同時に、深い“むなしさ”が常に背中に貼りついていた。

ある日、ある配送センターでの仕事中。

段ボール箱を手渡すと、女性スタッフがちらりと慎一の顔を見て、首をかしげた。

「あの、もしかして…テレビに出てた方、ですよね?」

その言葉に、血の気が引いた。

「いえ、人違いです」

そう即答し、すぐに現場を後にした。

だが内心では、叫びたい思いだった。

「忘れてくれ…それは、もう終わったんだ」

その日を境に、慎一はますます“声”を使うことを避けた。

話すこと。名乗ること。誰かに気づかれること。

──すべてが怖かった。

時折、スマートフォンを手に取る。

だが電源を入れることはなかった。

最後に連絡を取ったのは、息子の康平との電話だった。

「……頼むから、もう俺の前に現れないでくれ。父親として恥ずかしい」

その言葉を、慎一は拒絶しなかった。

むしろ当然だと思った。

自分が報道した内容が命を奪い、世間を傷つけ、家族をも巻き込んだ。

だから、忘れ去られることが“救い”なのだと信じようとしていた。

秋が深まり、夜の風が冷たくなってきた頃。

日雇いの現場で体調を崩した。

昼食を抜いていたせいか、ふらついて足元がよろけた。

立ち上がろうとした瞬間、目の前が真っ暗になった。

気づけば、知らない天井と、遠くのざわめきが聞こえていた。

「……おじさん、起きて!」

子どもの声だった。

「ちょっと!職員さん、こっち、倒れてる人!」

救急搬送された先は、地域の保健福祉センターの仮設診療所だった。

ベッドの横には、小さな女の子とその母親。

「この人、スーパーの前で倒れてたんです」

職員に水を渡され、慎一はかすかにうなずいた。

喉が痛い。声が出ない。

そう思いながらも、微かに「ありがとう」とだけ口にした。

そのとき、目の前の壁に貼られていた小さな紙が、彼の目に留まった。

──『認知症カフェ・紙芝居ボランティア募集』

昔話の読み聞かせをしてくれる方を募集しています──と書かれていた。

その瞬間、彼の中で何かが、かすかに揺れた。

声を使う? 自分が?

そう思い、すぐに首を振った。

「……自分には無理だ」

帰り際、受付で荷物を受け取ろうとした時だった。

ひとりの高齢女性が、手に紙芝居を持って近づいてきた。

「ねえ、あなた……読んでくれるの?」

穏やかな笑みと、曇りのない瞳。

その問いかけに、慎一は言葉を詰まらせた。

「……いえ、私は……」

だが、女性はにこりと笑って、紙芝居を差し出した。

「ここに来るとね、誰かの声があるの。それだけで、うれしいのよ」

その“うれしい”という言葉に、慎一の胸がじんわりと温かくなった。

自分の声を、誰かが“待っている”──?

そんな経験は、もう二度とないと思っていた。

その夜、ネットカフェに戻ってからも、その女性の声が頭から離れなかった。

「読んでくれるの?」

その言葉が、何度も胸の奥でこだました。

そして──

翌週の月曜日、慎一は、もう一度センターを訪ねていた。

震える指で、紙芝居ボランティアの登録用紙を受け取り、ペンを握る。

名前欄を前にして、ふと手が止まった。

だが、小さく息を吸って、書いた。

「大江慎一」

久しぶりに、自分の名前を、正面から書いた瞬間だった。

それは、彼の“声の物語”が、再び動き出す小さな一歩だった。

まだ、誰も拍手してくれるわけではない。

だけど、誰かの前で、もう一度「声」を出してみようと思えた。

それだけで、涙がこぼれそうだった。

📝 第三章

:カフェの静けさに、声が届いた日

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初めてその場所を訪れた日は、どこか胸がざわついていた。

「認知症カフェ」と呼ばれるその場所は、地域の高齢者やその家族が気軽に集まる“居場所”のような空間だった。

福祉センターの1階、日差しの入る開放的な広間。壁には子どもたちの絵、折り紙、季節の飾り物。

介護士や地域ボランティアが笑顔で迎え、コーヒーの香りがふわりと漂っていた。

けれど、慎一の足取りは重かった。

「…自分なんかが、ここにいていいのか?」

リュックに入れた紙芝居を何度も確認しながら、心の中でそうつぶやいた。

ボランティアの担当者に声をかけられ、部屋の一角に案内される。

丸いテーブルに、7〜8人の高齢者たちが座っていた。

白髪交じりの男性がひとり、まっすぐ彼を見つめていた。

「今日、読む人?」

その目に責める色はなかった。ただ、期待と少しの不安が入り混じったような静かなまなざし。

慎一は、小さくうなずいた。

「……よろしくお願いします」

その一言だけで、喉が乾いた。

声が震えたのが、自分でも分かった。

最初に手に取ったのは、昔話の紙芝居『花さかじいさん』だった。

昔ながらの和紙の色合いと、素朴な筆致の絵。子どものころ、祖母に読んでもらった記憶が、ふっとよみがえる。

「むかしむかし、あるところに──」

慎一は、声を出した。

最初の数枚は、自分の声が空間に“浮いている”ように感じた。

耳を傾けているのか、それともただ座っているだけなのか、分からない人もいる。

途中、立ち上がってうろうろ歩き出す人もいた。

「…やっぱり、自分には無理だったかもしれない」

そう思ったとき──

一人の女性が、ふいに笑った。

「この犬、かわいいねぇ」

ページに描かれたシロの絵を見て、優しくつぶやいたのだ。

それが合図のように、数人の視線が絵に注がれた。

ある男性は、黙ったまま目を細めていた。

別の女性は、小さく頷きながら、口元に手をあてていた。

──ああ、この人たちは“聴いている”。

慎一の胸に、小さな火が灯った。

彼は、ページをめくるたびに、語尾に表情を加えていった。

声の抑揚、間の取り方、登場人物の感情。

キャスター時代とは違う、「物語を届ける声」。

ただ情報を伝えるのではなく、誰かの心に“届く声”を。

読み終えたとき、拍手はなかった。

でも、沈黙の中で、一人の女性がつぶやいた。

「おじいちゃんが、よく読んでくれたの、思い出したわ」

その言葉に、慎一は思わず目を伏せた。

久しぶりに“声が誰かに届いた”ことが、涙腺を揺らした。

それから、週に3回のカフェ通いが始まった。

初めのうちは、緊張しながら毎回原稿を準備した。

読み間違いを恐れ、声の出し方に戸惑いながら、それでも続けた。

するとある日、同じテーブルにいた男性が話しかけてきた。

「お兄さん、声が落ち着くねぇ。昔のラジオみたいで、いいよ」

その言葉を聞いた瞬間、キャスター時代の自分がふと顔をのぞかせた。

だが、それをすぐに打ち消した。

──もう、誰かに見られるための声ではない。

今は、たったひとりの心に届けば、それでいい。

カフェの中では、彼のことを“しんちゃん先生”と呼ぶようになっていた。

「しんちゃん、今日も読むの?」

「この前のお話、もう一回聞きたいなあ」

名も肩書きもない、その場所だけのニックネーム。

それが、彼には心地よかった。

呼ばれること。期待されること。笑顔を向けられること。

それは、かつての“注目される声”とは違う、静かな“つながり”だった。

ある日、1人の高齢女性が、慎一の朗読中に突然立ち上がり、絵本を指差してこう言った。

「ここ、…ここ、覚えてる!」

周囲が少しざわついた。

スタッフが静かに声をかけようとしたそのとき──

慎一は、そっとページを戻し、ゆっくり、もう一度そのシーンを読み上げた。

「……おじいさんは、木の根元に、そっと灰をまきました」

女性は、その場で泣いた。

そして言った。

「小さいころ、母と一緒に見た……桜の木、思い出した」

誰かが記憶を失っていく中で、何かが“蘇る”瞬間に立ち会ったのは、慎一にとって初めてだった。

彼の“声”が、たしかに時間のどこかに触れたのだ。

カフェを出るとき、スタッフの一人が声をかけてきた。

「大江さん、いつもありがとうございます。…実は、うちの利用者さん、あなたの朗読、録音して聞いてるんです」

スマホを見せると、そこには慎一の声が収められたデータがいくつも並んでいた。

「“忘れないうちに聴きたい”って、仰ってました」

慎一は、少しだけ泣いた。

誰にも届かないと思っていた声が、こうして残っていることに──

そして、求められていることに。

その帰り道、慎一は初めて、自販機でホットコーヒーを買った。

蓋を開け、湯気の立つ缶から少しだけ香った苦み。

「……悪くない」

そう、つぶやいた声は、どこか誇らしげだった。

📝 第四章

:再び“声”で人とつながる日々

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朗読をはじめて三ヶ月が経った頃、慎一は週に3回のカフェ通いに、自然と「準備」という習慣を持ち始めていた。

朝起きると、ネットカフェの片隅でストレッチをしてから発声練習をする。

「あ・い・う・え・お」

「か・き・く・け・こ」

キャスター時代に染みついた滑舌の訓練が、再び身体に戻ってくるようだった。

リュックの中には、いつも数冊の絵本と紙芝居が入っている。お気に入りは『くまのこうちょうせんせい』と『ごんぎつね』。どちらも、読むたびに反応が違う。だからこそ、飽きない。

ある日、カフェのスタッフから、こんなことを言われた。

「大江さん、来月の“地域ふれあいデー”で、朗読のミニ発表をお願いできますか?」

一瞬、戸惑いが走った。

人前での朗読。かつてなら、スタジオカメラや中継マイクを前にして話していた自分が──

今は十数人の前に立つだけで、足がすくむような気がした。

「…自分でいいんですか?」

「はい。皆さん、“先生の声が好き”って言ってるんです」

“先生”という言葉が、くすぐったかった。

自分には何の資格も肩書きもない。ただ、読んでいるだけ。

だが、それが誰かの心に届いているという実感は、何よりも力になる。

「……わかりました。やらせてください」

その答えが口から出たとき、自分でも少し驚いていた。

発表会当日。

地域の高齢者や子どもたち、保育士や近隣住民など、30人ほどが集まった小さなホール。

マイクは使わず、あえて肉声で読むことにした。

選んだ作品は、『モチモチの木』。

不安にかられながらも、読み始めると、空間が静まっていくのがわかった。

慎一の声には、派手な演出もなければ、大きなジェスチャーもない。

だが──それがいい。

声のトーン、息づかい、間のとり方。そのすべてが“心の奥に語りかける”ようだった。

朗読が終わると、一拍おいて、小さな拍手が起こった。

子どもが「もっと聞きたい」と言い、お年寄りが「眠ってた記憶が起きた気がする」と涙ぐんだ。

慎一は、久しぶりに“立って拍手される感覚”を受け止めていた。

だが、あの頃と決定的に違うのは、心に“緊張”がなかったことだった。

イベントの終わりに、ある母親がこう話しかけてきた。

「うちの娘が、あなたの朗読を聞いて“本を読むのが好きになった”って言ってて…」

「家でも“声に出して読む”のを真似してるんですよ」

その話を聞いて、慎一は静かにうなずいた。

「……声って、不思議ですね」

「ええ。本当に、人と人をつなげてくれますね」

その言葉を聞いて、ふと脳裏をよぎったのは、かつてのスタジオだった。

何百万人という“見えない視聴者”に向けて発していた頃の自分。

そして、今は目の前の10人に、たしかに届く声を使っている自分。

“どちらが正解”ではない。

ただ、“今のほうが、誠実に声を使えている”──そう思った。

日々の朗読は、少しずつ変化していった。

ある日は、利用者の好みに合わせて絵本を選ぶ。

「今日は“ごんぎつね”がいいな」

「じゃあ、私は“うさぎとかめ”を」

そんなやりとりが日常になった。

読んだあと、一緒に笑ったり、少し泣いたり。

誰かが「ありがとう」と言ってくれるたびに、胸がじんわりとあたたまった。

朗読は、読む側の心を癒すものだ──慎一はそれを、日々感じていた。

ある日、スタッフから「もう一人、朗読をしたいという方が来てます」と紹介されたのは、20代の青年だった。

緊張した面持ちのその青年は、声が震えていた。

「あの、実は……前に施設で朗読してもらってた人がいて、自分もやってみたくて」

慎一は、軽くうなずいた。

「最初は、誰でも緊張しますよ。ゆっくり、でいいです」

その言葉に、青年は少しだけほっとしたようだった。

誰かが、自分の“あと”を歩き始めている──

そのことが、心に不思議なぬくもりをくれた。

慎一の声は、録音データとして地域の福祉施設にも共有されるようになった。

夜中に不安で眠れないという高齢者が、「“しんちゃんの声”で眠れる」と言って、スタッフに頼むこともあるらしい。

彼の声は、もう“自分のため”に使われているのではなかった。

誰かの記憶に寄り添い、静かに灯る“声の灯台”のような存在になっていた。

ある日、読み終えたあとに、一人の利用者がそっと言った。

「…あなたの声って、昔、大きなテレビで聞いたことがある気がするの。でも、思い出せないの。ごめんなさいね」

慎一は、笑って答えた。

「忘れてしまって、大丈夫です。その代わり、今日のお話だけ、覚えていてくれたら」

女性は、ゆっくりうなずいた。

「うん、今日の話は、忘れないと思う」

その瞬間、慎一は確信した。

自分は、ここにいていい。

もう、何者でもなくていい。

名前も、過去も、賞も、評価もいらない。

ただ、今日の“この声”が、誰かの中に残るなら──それで、十分だと。

📝 第五章

:かつての自分との再会、そして選択

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その日は、特別な何の予定もない、静かな午後だった。

カフェの読み聞かせを終え、書架に本を戻していた慎一のもとに、一人の職員が近づいてきた。

「大江さん。今、入口でお客様がお待ちです。…テレビ関係の方だと」

その言葉に、一瞬、手が止まった。

「テレビ?」

その響きが、自分の身体の中から完全に消えていたわけではなかった。

ただ、それが現実のものとして再び現れるとは、まったく思っていなかった。

入口には、30代半ばのスーツ姿の男性が立っていた。

少し緊張した面持ちで、慎一を見つけると、軽く頭を下げた。

「…やっぱり、先輩ですね」

どこかで見た顔だった。だがすぐに思い出せなかった。

「失礼ですが……」

「TNNの報道制作部の佐々木です。以前、現場でADをしていた佐々木雄介です」

その名前を聞いて、慎一の記憶が一気に蘇った。

「…ああ。おまえ、“竹林の自殺現場”の取材に同行してた……」

「はい。あのとき、先輩が“現場は映さなくていい”って言ってくれて、すごくホッとしたのを覚えてます」

慎一は苦笑した。

「よく覚えてたな」

「…一生、忘れられませんよ。あの日の言葉が、今も自分の“報道の原点”です」

佐々木は深く頭を下げた。

二人は、施設近くの喫茶店で話をすることになった。

コーヒーを前にしても、どこかぎこちなさが残っていた。

それでも、佐々木は懐かしそうに語った。

「実は今、TNNの新しい報道ドキュメンタリーで、“声の記憶”という企画を立ち上げていまして……」

「声の記憶?」

「はい。“誰の記憶にも残る声”って、ありますよね。先輩の声も、まさにその一つです。僕たちの中では、いまだに“伝説”なんですよ」

慎一は、その言葉をどこか他人事のように聞いていた。

「もう、俺の声なんて、誰も覚えていないさ」

「いえ、覚えてます。…実は、今回の企画で、ぜひ“再出演”していただけないかと思って、お伺いしました」

そう言って差し出されたのは、ドキュメンタリーの企画書だった。

“消えた声──かつての報道キャスターが紡ぐ、新しい語り”

そこには、慎一の名前が仮タイトルとして記されていた。

数秒間、慎一は目を閉じた。

心が静かに揺れていた。

「…ありがたい話だ。でも、俺はもう、そういう場所には戻れない」

「なぜですか?」

「理由は簡単だ。“戻るべき場所”じゃないからだよ」

そう言って、カフェでの出来事を少しだけ語った。

認知症の利用者が自分の声を覚えていたこと。

昔話をきっかけに、笑ったり、泣いたりしてくれる人がいること。

誰も“報道の顔”だなんて思っていないのに、それでも自分の声を必要としてくれている場所があること──

佐々木は黙って聞いていた。

やがて、ゆっくりと口を開いた。

「…じゃあ、“声を届ける場所”が変わっただけなんですね」

「そうかもしれないな」

「けど、今もやっぱり、“人に届く声”であることには変わりない」

慎一は、それを否定しなかった。

「ただ、今は……声を“使わせてもらってる”という感じなんだ」

「以前は、声で“伝えていた”つもりだったけど、今は“寄り添っている”気がする」

その言葉に、佐々木はしばらく黙っていた。

やがて、小さくうなずき、静かに言った。

「…分かりました。企画は、また別の形で進めます。もし、いつか“語りたいこと”があれば、僕らはいつでも待ってます」

そう言って、席を立とうとした佐々木に、慎一はこう言った。

「一つ、お願いがある」

「はい?」

「この話……報道しないでくれ。誰にも知られずにいたい人も、いるんだ」

佐々木は、驚いたように目を見開いたが、やがて頷いた。

「了解しました。“知られないこと”もまた、ひとつの選択ですね」

カフェに戻った慎一は、その日もいつものように絵本を取り出した。

今日は『つきのぼうや』。

読み終えたあと、一人の女性がぽつりと呟いた。

「あなたの声、どこか懐かしいの。夢の中で聞いたことがあるみたい」

慎一は微笑んで言った。

「そうだといいですね」

その声には、もはや過去の名残も、未練もなかった。

目の前の人に“今、届く声”を紡ぐ──

それが、彼のすべてだった。

喫茶店を出た佐々木は、局に戻り、企画書を閉じた。

「……まだ伝える時じゃない。あの人の声は、もう“どこかで静かに生きている”」

その判断は、報道の人間としてではなく、一人の“かつての部下”としての敬意だった。

📝第六章

:静かな扉の、その先に

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佐藤修一は、その日も庭の手入れをしていた。

小さな雑草を抜き、鉢植えの位置を少しだけ変えてみる。

以前は、庭など見向きもしなかった。

どこに何の植物が植わっているかなど、まるで他人事だった。

だが今では、草の名前も、季節ごとの変化も、少しずつ覚えるようになった。

そんなある日。

近所の小学生たちが、庭の前で立ち止まっていた。

「こんにちはー!」

声をかけてきたのは、ランドセルを背負った女の子。

彼女は修一が手入れしていたアジサイをじっと見つめていた。

「この花、きれいですね。学校で習ったんです。アジサイっていうんですよね?」

その言葉に、修一は思わず笑ってしまった。

「そうだね。アジサイ。今ちょうど咲き始めたところだよ」

「ふーん……また見にきてもいいですか?」

「もちろん。おじさんの庭だけど、君たちの花でもあるからね」

その日を境に、時折、子どもたちが庭先をのぞいてくれるようになった。

「アジサイ、まだ咲いてますかー?」

「おじさん、これ、なんていう花ですか?」

修一は、自分でも驚くほど穏やかな気持ちでそのやりとりを楽しんでいた。

誰かにとっての「風景の一部」になること。

それが、思った以上にうれしかったのだ。

ある日、亡き父の遺品の中から、一冊の古いノートを見つけた。

中には、手書きの文章がつづられていた。

「修一へ。

 君がこれを読むのは、ずっと後かもしれない。

 けれど、どんな道を選んでも、

 君が『自分で選んだ』と胸を張れるなら、

 それが一番だと父は思う」

涙がこぼれた。

父はやはり、何も言わずに見守ってくれていたのだ。

会社員として真面目に働き続けた日々。

迷い、疲れ、逃げ出したくなったこともあったけれど——

いま、こうして庭に咲く花と子どもたちの声に囲まれて、

静かな幸福を感じている。

これが、自分の選んだ人生の続きを歩くということなのかもしれない。

あの日から、すべてが大きく変わったわけではない。

だが、少しずつ。

ほんの少しずつ。

自分の中で、静かに扉が開きはじめている。

それは、誰かのためでもなく、

何かを成し遂げるためでもない——

ただ、自分のために。

佐藤修一は、今日も庭に立つ。

風に揺れるアジサイの向こうで、

未来という名の、新しい季節がゆっくりと始まっていた。

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サイレントヒーローズ「佐伯 啓介」
「静かに、穏やかに生きたい──60代から始める“人間関係の見直し”という選択」
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法人17年目のしぶとい社長です。気づきと学びをポロポロ落とすチャンネル。拾うも自由、スルーも自由。でも見てくれたら本当に嬉しい。
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