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CMジェンダー炎上の本質とは?社会の無理解を問う

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東浪見
目次
CM炎上は他人事?なぜ私たちは「モヤモヤ」するのか 繰り返される炎上―どんなCMが問題になったのか? ケース1:変わらない「男は仕事、女は家庭」 ケース2:モノ扱いされる女性の身体 ケース3:「若さ・美しさ」だけが価値なのか ケース4:見下され、矮小化される存在 「不快感」の正体―批判の裏にある社会の“痛み” 広告は現実を映す「鏡」 「共感」のつもりが「侮辱」に変わる時 「一部のクレーマー」論を乗り越えて 声の「大きさ」と批判の「正当性」 沈黙する多数派(サイレント・マジョリティ)の代弁者 なぜ問題作は生まれる?作り手の「無意識の偏見」 悪意なき加害と均質な制作現場 社会を映し、社会を形作る広告のループ 炎上の先へ―社会を動かす広告の力 批判を越えて評価される表現とは 私たちにできること まとめ:炎上は、より良い社会への対話の始まり

CM炎上は他人事?なぜ私たちは「モヤモヤ」するのか

「またCMが炎上している」。SNSを開けば、そんな話題が定期的に流れてきます。特定の広告におけるジェンダー表現が批判の的となり、時には放送中止や謝罪に追い込まれる。この一連の騒動に対し、「一部の過敏な人たちが騒いでいるだけ」「クレーマーの過剰反応だ」と感じる人もいるかもしれません。

しかし、本当にそうでしょうか。もし、これらの炎上が単なる一部の声に過ぎないのなら、なぜこれほどまでに繰り返され、社会的な議論を巻き起こすのでしょうか。

この記事では、CMのジェンダー表現をめぐる炎上の本質に迫ります。それは、一部の人の感情的な反発ではなく、多くの人が現実世界で感じている「生きづらさ」や社会構造の歪みが、広告という鏡に映し出された時に生まれる、必然的な摩擦なのです。この問題は、広告を作る側と見る側の間にある「無理解」の溝を浮き彫りにしています。

繰り返される炎上―どんなCMが問題になったのか?

広告におけるジェンダー表現への批判は、今に始まったことではありません。古くは1975年の「私作る人、僕食べる人」というラーメンのCMが、性別役割分業を固定化するとして放送中止に追い込まれた歴史があります 。現代の炎上事例はより複雑ですが、主に4つのパターンに分類できます 。  

ケース1:変わらない「男は仕事、女は家庭」

最も頻繁に批判されるのが、旧来の性別役割分業を無批判に描く表現です。

2017年のユニ・チャーム「ムーニー」のWeb CMは、育児と家事を一人で担う「ワンオペ育児」に疲弊する母親を描き、「その時間が、いつか宝物になる」というメッセージで締めくくりました 。父親の不在を前提とし、母親の自己犠牲を美化するかのような内容は、「現実を肯定し、さらなる我慢を強いるものだ」と多くの当事者から激しい批判を浴びました 。

また、2021年のIKEAのCMでは、母親がソファでくつろぐ夫と娘に跪いて飲み物を運ぶ姿が「女性を奴隷のように扱っている」と批判されました 。男性が家事に失敗する様子をコミカルに描く表現も、結果的に「家事は女性の領域」という固定観念を補強するものとして問題視されています 。

ケース2:モノ扱いされる女性の身体

女性の身体を、商品やサービスのアイキャッチとして性的に消費する表現も根強く残っています。

2017年のサントリーのビール「頂」のCMは、出張先で出会った女性たちが思わせぶりなセリフを語りかける内容で、「下品」「AVのようだ」と厳しく非難され、配信停止に至りました 。

公共空間に設置されるアニメ調の「萌え絵」キャラクターも、しばしば議論の的となります。三重県志摩市の公認キャラクター「碧志摩メグ」は、胸や下着を強調したデザインに対し、地元の海女から「職業を貶めている」と深刻な批判が寄せられました 。

ケース3:「若さ・美しさ」だけが価値なのか

外見至上主義(ルッキズム)や年齢差別(エイジズム)を助長する表現も、多くの人を傷つけます。

2016年に放送中止となった資生堂「インテグレート」のCMは、25歳になった女性が友人から「今日からあんたは女の子じゃない」「チヤホヤされない」などと言われる内容でした 。これは、女性の価値を若さやかわいらしさに限定するものだと強い批判を受けました 。国際NGOの調査では、若者の4割以上が広告に不快感を覚えた経験があり、その理由のトップは「ジェンダーの固定観念の助長」でした 。

ケース4:見下され、矮小化される存在

特定のジェンダーの視点や存在そのものを軽んじる表現も、大きな反発を招きます。

2021年のテレビ朝日「報道ステーション」のWeb CMは、若い女性に「『ジェンダー平等』とかって今、スローガン的に掲げてる時点で、何それ、時代遅れって感じ」と嘲笑的に語らせ、その上に「こいつ報ステみてるな」というテロップを表示しました 。ジェンダー平等を求める人々を「時代遅れ」と見下し、そのメッセージをあえて女性に言わせる構図が悪質だとされ、動画は削除、謝罪に至りました 。

「不快感」の正体―批判の裏にある社会の“痛み”

CMへの批判は、単なる個人の「好き嫌い」や「不快感」で片付けられるものではありません。その根底には、広告が映し出す社会の姿と、自分たちが生きる現実との間に横たわる、看過できないほどのギャップが存在します。

広告は現実を映す「鏡」

炎上するCMの多くは、日本社会が抱える構造的な不平等を、あまりにも無神経に映し出しています。「ムーニー」のCMがなぜあれほどまでに批判されたのか。それは、描かれた「ワンオペ育児」が、多くの女性にとってフィクションではなく、日々のドキュメンタリーだったからです 。

内閣府の調査によれば、就学前の子供を持つ家庭では、妻の家事・育児時間は夫の2倍以上です 。男性の育休取得率は近年30.1%まで向上したものの 、その約4割が2週間未満の取得に留まるなど、負担の偏りは依然として大きいのが現実です 。このような現実に苦しむ人々にとって、CMのメッセージは慰めではなく、現状を肯定し自己犠牲を強いる侮辱に他なりませんでした。  

世界経済フォーラムが発表するジェンダーギャップ指数で、日本は2024年も146カ国中118位と低迷しています 。特に「経済(120位)」と「政治(113位)」の分野での遅れは深刻で、女性管理職の割合の低さや賃金格差は大きな課題です 。広告がこうした現実を無批判に再生産することは、不平等を「当たり前」のものとして社会に刷り込み、変革の芽を摘むことにつながります 。  

「共感」のつもりが「侮辱」に変わる時

皮肉なことに、最も激しい炎上は、悪意ある広告よりも、むしろ「応援」や「共感」を意図した広告から生まれることがあります。2019年の西武・そごうの広告「わたしは、私。」は、女性がパイを投げつけられる衝撃的な映像で、社会の圧力に屈しない個人の強さを描こうとしました 。しかし、多くの視聴者は、社会構造の問題を個人の精神論にすり替えるものだと受け取りました 。

これは、作り手が想定する「共感」と、受け手が生きる「現実」との間に深い溝があることを示しています。自らの経験や痛みが、影響力の強いメディアによって根本的に誤解され、歪めて伝えられているという感覚こそが、炎上の強力な燃料となるのです。

「一部のクレーマー」論を乗り越えて

炎上が起きるたびに、「一部の過激な声(ボーカル・マイノリティ)が騒いでいるだけ」という反論が必ず現れます 。実際、ある調査では、特定のCMに対するSNS上の直接的かつ否定的な批判は、関連投稿全体のわずか2%だったというデータもあります 。

声の「大きさ」と批判の「正当性」

しかし、批判者の数が少ないからといって、その主張の正当性が失われるわけではありません 。SNSは、これまで可視化されにくかった個人の声を社会に届けることを可能にしました 。声を上げる人々は、その表現によって最も直接的に傷つき、不利益を被ってきた当事者であることが多いのです。彼らの声は、単なる好みではなく、自らの尊厳をかけた切実な訴えです。  

沈黙する多数派(サイレント・マジョリティ)の代弁者

オンラインで声を上げる少数の人々は、決して孤立した存在ではありません。彼らは、声には出さないまでも同じような違和感を抱いている、より広範な「沈黙する多数派」の感情を代弁する、いわば「炭鉱のカナリア」です。

前述の調査で、若者の41.8%が広告に不快感を覚えた経験があると回答している事実は、その裏付けと言えるでしょう 。企業がこの声を「一部のノイズ」として無視することは、市場からの貴重なフィードバックを見過ごし、多くの潜在顧客が抱える不満から目を背けることに他なりません。

なぜ問題作は生まれる?作り手の「無意識の偏見」

問題となる広告の多くは、明確な悪意からではなく、作り手側の「無意識の偏見(アンコンシャス・バイアス)」から生まれます 。広告業界や企業の意思決定層の価値観が均質的である場合、作り手は自らが持つ固定観念を無自覚のうちに作品に反映させてしまいます 。

悪意なき加害と均質な制作現場

ジェンダーバイアスは社会に深く根付いており、性別を問わず誰もがその影響下にあります 。だからこそ、企画から制作、承認に至るすべてのプロセスで、多様な視点からのチェックが不可欠なのです 。

社会を映し、社会を形作る広告のループ

広告は、社会の現状を映す「鏡」であると同時に、人々の意識や社会規範を形作る「鋳型」でもあります 。ステレオタイプな広告が繰り返し流されることで、その価値観が「標準」として内面化され、現実社会の不平等を温存させてしまう。そして、その温存された現実が、また新たなステレオタイプ広告を生む正当化の根拠となる。この悪循環こそが「社会の無理解」の正体であり、炎上とは、このループを断ち切ろうとする社会の抵抗の表れなのです。  

炎上の先へ―社会を動かす広告の力

では、私たちはどうすればよいのでしょうか。事後対応に追われるのではなく、制作のプロセスそのものを変革し、より良いコミュニケーションを目指す動きも始まっています。

批判を越えて評価される表現とは

ジェンダー平等や多様性を尊重する視点は、新たな創造性の源泉となり得ます。

  • 沢井製薬「サワイジェンダーアクション」:女性創業者に光を当て、広告視聴がジェンダー平等に取り組む団体への寄付につながる仕組みが高く評価されました 。
  • ユニ・チャーム「#NoBagForMe PROJECT」:生理用品を隠す日本の慣習に疑問を投げかけ、タブー視されがちなテーマをオープンに語ることを促したことで、国連女性機関関連の広告賞を受賞しました 。
  • あばれる君夫妻が出演したビールのCM:子育てに積極的に関わる父親の姿を自然に描き、時代に合った表現として好意的に受け止められました 。

私たちにできること

より良い広告表現を育むためには、企業と消費者の双方の取り組みが重要です。

企業は、制作チームの多様性を確保し、ジェンダーに関する研修やガイドライン策定を進めるべきです 。また、企画段階から市民や専門家の意見を取り入れることも有効でしょう 。

私たち消費者も、メディアリテラシーを高め、広告のメッセージを批判的に読み解くことが求められます 。そして、問題のある広告を批判するだけでなく、優れた表現や先進的な取り組みをSNSなどで共有し、応援することも、社会を変える大きな力になります 。  

まとめ:炎上は、より良い社会への対話の始まり

CMをめぐる炎上は、単なるネット上の騒動ではありません。それは、広告が描く世界と、多くの人々が生きる現実との間に存在する深刻なギャップを知らせる危険信号です。その批判の根底には、社会に根付く構造的な不平等や、それによって日々生じる痛みがあります。

「一部の声」だと切り捨てるのは簡単ですが、その声に耳を傾けることでしか、社会の無理解という根深い問題は解決しません。炎上を単なるリスクとして恐れるのではなく、社会との対話の機会と捉えること。そこから、誰もが自分らしく生きられる未来に向けた、建設的な一歩が始まるはずです。

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