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「嗅覚障害の犬が待ち続けた33年――涙の奇跡」

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目次
プロローグ:小さな町と家族の日常 第一章:葵とリキの朝の習慣、そして見送り 第二章:思わぬ乗車、葵の動揺 第三章:最終駅、行方不明のリキ 第四章 : 家族の必死の捜索、見つからない苦しみ 第五章:葵の成長とリキの孤独な彷徨 第六章:リキ、学校にたどり着き居場所を得る 第七章 : 四季を越えて待ち続けるリキの姿 第八章:老いたリキ、学校に見守られながら最期を迎える 第九章:リキの記録と新聞に刻まれた物語 第十章:新聞記事を見た葵、再会の涙 エピローグ:語り継がれるリキの物語

プロローグ:小さな町と家族の日常

その町は、決して華やかではない。

けれども、人々の顔には不思議な温もりが漂う、小さな地方の町だった。

春になると、駅前の桜並木が一斉に花を咲かせる。

夏には子どもたちの笑い声が商店街に響き渡る。

秋には金色の稲穂が町を包み、冬には雪景色が静けさを運んでくる。

四季折々の表情を見せる町に、一つの家族が暮らしていた。

お父さん、お母さん、おばあちゃん。

そして小学低学年の葵。

さらにもう一人──いや、一匹。

雑種犬のリキが家族の輪の中にいた。

リキは二歳。

まだ若く元気いっぱいだが、生まれつき嗅覚に障害があった。

犬にとって匂いは世界そのもの。

その一部を欠いたリキは、しかし不幸ではなかった。

その代わりに耳が良く、足音や声を敏感に聞き分けた。

葵の足音は、遠くからでもすぐにわかった。

毎朝の光景は、町の人々にとっても馴染みの風景だった。

学校へ向かう葵を、リキが駅まで見送るのが日課だった。

駅前で葵と別れる瞬間。

名残惜しそうにしっぽを振りながらも、リキはルールを守った。

「ここで待つんだよ」

その姿に、近所の人は「えらいねえ」と声をかけた。

葵にとってリキは、ただの犬ではなかった。

友達であり、弟のようであり、何より心を寄せる相棒だった。

縁側から二人を見送るおばあちゃんは目を細めていた。

「ほんに仲のええもんじゃなあ」

お母さんは台所で弁当を詰めながら声をかけた。

「帰ってきたらまた一緒に散歩ね」

お父さんも笑顔で言う。

「リキがいてくれて、うちは助かっとる」

そんな何気ない日常こそが、家族にとっての幸せの形だった。

だが、人生は思いもよらぬ出来事を用意している。

桜舞う春のある朝。

駅のホームでの一瞬が、家族にとって大きな運命の分かれ道となる。

その時、まだ誰も知らなかった。

小さな命が長い年月をかけて“待ち続ける物語”を紡ぐことを。

やがてその物語は、多くの人の涙と心に刻まれることになる。

雑種犬のリキが家族の輪の中にいた

第一章:葵とリキの朝の習慣、そして見送り

朝の光は、まだ柔らかい。

小さな町の家々を照らし、畑や商店街の屋根を静かに染めていく。

その日も変わらぬように、家の中は慌ただしかった。

お母さんは台所で味噌汁の湯気を立てながら、弁当を詰めている。

お父さんは新聞を広げつつ、コーヒーを口にする。

おばあちゃんは縁側で、すでに朝日を浴びながらゆっくりと体をほぐしていた。

そんな日常の中心に、二人の小さな影があった。

葵とリキ。

まだ小学低学年の葵は、制服に袖を通したばかり。

髪を結んでもらいながら「いってきます」と笑顔を見せる。

リキはその横で尻尾を大きく振り、葵の一挙一動を見逃さない。

「今日も行くんだろう?」とでも言うように、目を輝かせている。

葵がランドセルを背負うと、リキはすかさず立ち上がる。

玄関まで駆け出し、靴を履く音に耳を澄ませる。

おばあちゃんは笑って声をかける。

「ほら、リキ。ちゃんと送ってあげるんだよ」

お母さんは少し慌ただしく言う。

「葵、忘れ物ない? ハンカチ持った?」

お父さんは新聞から顔を上げて言う。

「今日も元気で行けよ」

葵は小さな声で「うん」と答え、リキの頭を軽くなでた。

その瞬間、リキは大きく吠えるでもなく、静かに喜びを表した。

玄関を出ると、町の朝が広がっている。

鳥の声、パン屋から漂う香ばしい匂い、登校する子どもたちの笑い声。

その中で、葵とリキは並んで歩き出す。

小さな足と四本の足が、リズムを合わせるように進んでいく。

道すがら、商店街の人たちが声をかけてくる。

「おはよう、葵ちゃん」

「リキ、今日も一緒かい?」

リキは尻尾を振って答え、葵はにこやかに挨拶を返す。

その光景は、町に住む人々にとって心温まる朝の風物詩だった。

駅に近づくにつれて、人の数が増えていく。

通勤する大人たちが足早に歩き、列車の到着を告げるアナウンスが響く。

葵は少し緊張した面持ちでリキを見下ろす。

リキは「大丈夫だよ」と言うように、横に座り込んだ。

「ここまででいいよ」

葵がそう言うと、リキは静かにしっぽを揺らす。

いつもなら、この駅前で二人は別れる。

葵は列車に乗り込み、リキはその場に残る。

けれども、その瞬間までの時間が、葵にとっては特別だった。

まるで見えない糸でつながっているように、互いに視線を交わす。

「ちゃんと帰ってくるからね」

葵が小さくつぶやくと、リキは耳をピンと立てた。

列車が入ってくる音が町に響く。

風を切る音とともに、ホームには緊張した空気が広がる。

周りの子どもたちがわいわいと駆け込む中、葵は一歩一歩、列車に近づく。

振り返れば、リキがじっとその背中を見つめている。

「いってきます」

声にならない唇の動きを、リキは見逃さなかった。

ドアが閉まる音。

列車が動き出す音。

ガラス越しに、リキの姿が小さく揺れる。

葵は窓に手を当てて、その姿を目に焼き付けた。

いつもなら、ここで一日が始まる。

帰ってきたとき、またリキが待っている──その当たり前の安心。

しかし、この日常の延長線上に、思いもよらぬ出来事が待ち受けていた。

葵もリキも、まだそのことを知らなかった。

葵とリキ

第二章:思わぬ乗車、葵の動揺

ホームには朝のざわめきが満ちていた。

通勤客の靴音、駅員の声、列車のブレーキ音。

葵は列車の到着を前に、少し背筋を伸ばした。

リキは足元に座り込み、じっとその様子を見守っていた。

列車がゆっくりと入ってくる。

金属音がホームを震わせ、風が髪を揺らした。

「今日もここまでだよ」

葵はリキに小さく言い聞かせる。

リキはしっぽを振り、耳をぴんと立てた。

いつもなら、ここで別れの合図になる。

だがその瞬間、ホームの後方から突然大きな音が響いた。

落下した金属音か、怒鳴り声か、何かが激しく地面を打つ音だった。

リキはびくりと体を震わせた。

耳が敏感な彼には、その音は想像以上の衝撃となった。

反射的に立ち上がり、逃げ場を探すように視線を巡らせる。

次の瞬間、目の前の開いた列車のドアに駆け込んでしまった。

「リキ!」

葵の声がホームに響く。

けれどもリキの体は、もう列車の中に飛び込んでいた。

周囲の人々が驚いた顔を向ける。

ドアが閉まりかける。

葵は一歩前に出るが、間に合わない。

「待って! 犬が……!」

必死に声を上げたが、騒音にかき消される。

車掌も乗客も、その一瞬の出来事には気づかなかった。

列車は規則正しく発車の音を鳴らす。

ガタン、とドアが閉まる。

葵の目の前で、リキを乗せた列車が動き出した。

「リキーー!」

葵は窓越しに叫んだ。

だが列車の中にいるリキは、ただ振り返り、耳を震わせるだけだった。

声は届かない。

窓の向こうで、リキの姿が遠ざかっていく。

葵の小さな手は必死にガラスに伸ばされたが、届くはずもなかった。

ホームに残された葵は、立ち尽くした。

心臓が大きく打ち、涙がこみあげる。

「どうしよう……リキが……!」

頭の中が真っ白になる。

友達が心配そうに声をかけた。

「葵ちゃん、大丈夫? 降りてこないの?」

だが葵は答えられなかった。

ただ震える唇で「リキ……」とつぶやく。

列車は加速し、すぐに視界から消えていった。

ホームには静けさだけが残る。

その場にいた大人たちは、ほんの出来心のように笑っていた。

「犬が電車に? 珍しいね」

「きっとすぐ降ろされるだろう」

だが葵には、その言葉は届かなかった。

胸の奥に広がるのは、不安と恐怖だけだった。

リキは電車に乗ってはいけない。

ペットは認められていないし、何よりリキには帰り道を嗅ぎ分ける力がない。

「リキは……どうなるの……?」

葵の目から、ぽろりと涙が落ちた。

友達が慌ててハンカチを差し出した。

「葵ちゃん、泣かないで……」

だが葵は受け取らず、両手で顔を覆った。

どうすることもできない。

列車は遠くへ行ってしまった。

リキも一緒に──。

ホームに立つ葵の姿は、あまりにも小さく、心細かった。

けれどもその背中には「責任」という言葉が重くのしかかっていた。

「私が……連れていっちゃったんだ……」

小さな胸の中に、痛いほどの後悔が広がる。

それでも列車は止まらない。

運命の歯車は、すでに動き出していた。

葵の涙が落ちるホームの床に、朝日が差し込む。

その光は温かいはずなのに、葵には冷たく感じられた。

リキと葵を引き離した瞬間。

それは、この物語の長い長い始まりだった。

「今日もここまでだよ」葵はリキに小さく言い聞かせる

第三章:最終駅、行方不明のリキ

列車は揺れながら走り続けていた。

窓の外に流れる景色は、リキにとって見慣れないものばかりだった。

人の匂いを嗅ぎ分けることができない彼には、今どこにいるのか分からない。

ただ、葵の姿がないことだけは、はっきりと分かっていた。

座席の下に身を縮め、静かに息をひそめる。

誰かに見つかれば、きっと追い出される。

リキは本能的にそれを感じていた。

だから一声も発さず、ただ震える体を小さく丸めていた。

車内では人々のざわめきが続いていた。

新聞を広げる音、携帯を操作する音、眠気をこらえるための咳払い。

そのすべてがリキにとっては異質な音だった。

耳をすませばすますほど、不安が募っていく。

「……葵」

心の中でその名前を呼ぶように、リキは鼻を動かした。

しかし匂いは分からない。

ただ、自分が遠くへ来てしまったことだけが感覚として伝わっていた。

やがて列車は速度を落とし、静かに停車した。

「終点です。お降りの際は──」というアナウンスが流れる。

最終駅。

人々が次々に降りていき、車内は急速に静まり返った。

そのとき、車掌が通路を歩いてきた。

「……犬?」

リキは驚いて身を固くした。

逃げ場はなかった。

車掌は眉をひそめ、ため息をついた。

「まったく、誰がこんな……」

そして腕を伸ばし、リキを追い立てるようにドアの外へ導いた。

「ほら、降りろ。ここはお前の居場所じゃない」

リキは足を踏み出した。

冷たいアスファルトの感触が肉球に伝わる。

振り返れば、もうドアは閉まりかけていた。

列車は役目を終え、静かにその場に留まっている。

広い駅のホーム。

人影はまばらで、見慣れぬ匂いと音があふれていた。

リキはきょろきょろと周囲を見回した。

葵はいない。

家族の誰もいない。

ただ、知らない人々の足音と、遠くで響く電車のベル。

すべてが不安をかき立てる。

リキは思わず一歩、駅の外へ駆け出した。

しかし、どこに向かえばいいのか分からない。

匂いを頼りに帰ることはできない。

見知らぬ町の景色が、ただ広がっているだけだった。

行き交う人々は冷たい視線を投げかける。

「野良犬か?」

「危ないから近づくな」

誰も声をかけてはくれない。

リキはますます小さく身を縮め、歩道の隅に身を寄せた。

心臓が早鐘のように打つ。

耳は、葵の声を探している。

けれども、どこからも聞こえてこなかった。

ただ車のクラクションと、町の雑踏が押し寄せてくるだけだった。

太陽はすでに高く昇り、日差しは強かった。

小さな体には、その熱がずしりと重くのしかかる。

「葵……」

リキの瞳が潤むように揺れた。

そのとき、駅のホームに再び列車が入ってきた。

だが、そこに葵の姿はなかった。

ホームに座り込んだリキは、力なくしっぽを垂らした。

誰にも気づかれず、誰にも迎えられず、ただ孤独に取り残されていた。

やがて人々の流れに押され、リキは町の中へと歩き出す。

葵を探すために。

家へ帰るために。

しかし、その道のりはあまりにも過酷だった。

嗅覚に障害を抱えたリキには、地図も道しるべもなかった。

ただ足を前に進めるしかなかった。

その一歩一歩が、やがて長い試練の始まりとなる。

こうしてリキは、行方不明になった。

家族のもとへ戻る道を失い、孤独な旅を始めることになった。

人影はまばらで、見慣れぬ匂いと音があふれていた

第四章 : 家族の必死の捜索、見つからない苦しみ

葵が学校から帰ってきたとき。

玄関にリキの姿はなかった。

「ただいま……」

声をかけても、しっぽを振って飛び出してくる気配はなかった。

葵は靴を脱ぐ間もなく、家中を探した。

庭、縁側、縁の下。

だが、どこにもいなかった。

「お母さん、リキがいない!」

お母さんは驚いた顔を見せた。

「え? 散歩にでも行ったんじゃないの?」

お父さんも新聞を置いて立ち上がった。

「おいおい、あの子は一人で出て行ったりせんだろう」

だが葵の顔は青ざめていた。

「駅で……電車に乗っちゃったの……!」

言葉は震えていた。

思い出すたびに胸が締めつけられる。

お母さんは一瞬絶句し、ハッと顔色を変えた。

「電車に? 本当なの?」

「うん……ドアが閉まる直前に……!」

葵の目には涙がにじんでいた。

家の空気が一瞬で変わった。

お父さんはすぐに上着を羽織り、声を張り上げた。

「探しに行くぞ!」

おばあちゃんも縁側から立ち上がった。

「まさか……あの子がひとりで……」

家族全員が動き出した。

最寄りの駅へと急いだ。

駅員に事情を話すと、驚いた顔をされた。

「犬……確かに最終駅で見つかりましたが……外に出してしまいました」

その言葉に、お母さんの顔が曇った。

「外に……?」

お父さんは駅員に頭を下げ、走り出した。

「とにかく探すんだ!」

家族は手分けして町を歩いた。

リキがよく通る散歩道。

川沿いの土手。

商店街の裏路地。

葵は声を限りに呼んだ。

「リキー! リキー!」

だが返事はなかった。

葵の声だけが、空しく夜の町に響いた。

日が落ち始めると、不安はさらに募った。

「暗くなったら見つからない……」

お母さんは震える声でつぶやいた。

おばあちゃんは手を合わせて祈るように言った。

「どうか無事でいておくれ……」

だが時間だけが過ぎていく。

足は疲れ、声はかすれ、灯りが一つずつ点いていく。

それでもリキの姿はなかった。

葵の胸に、重い罪悪感が広がっていった。

「私のせいだ……」

「私が止められなかったから……」

涙で視界がにじむ。

呼んでも呼んでも返ってこない。

お父さんは肩で息をしながら言った。

「もう今日はここまでだ……」

お母さんも目を赤くして頷いた。

「明日も探そう……きっとどこかにいるから……」

だがその声には、希望よりも不安が混じっていた。

葵は頷けなかった。

「リキは帰ってこられない……匂いが分からないんだもん……」

家族の誰もが、その事実を知っていた。

けれども、口にはできなかった。

その夜、葵は布団の中で眠れなかった。

耳を澄ませば、リキの足音が聞こえる気がした。

「リキ……帰ってきて……」

涙が枕を濡らした。

家族の必死の捜索は、結局何の手がかりも得られなかった。

ただ虚しさと疲労だけが積み重なった。

小さな町の夜は静かだった。

だがその静けさは、家族にとっては耐えがたい孤独の証だった。

こうしてリキは、本当に行方不明になってしまった。

そして家族の心には、深い穴が空いたまま残された。

葵は声を限りに呼んだ。「リキー! リキー!」

第五章:葵の成長とリキの孤独な彷徨

リキが姿を消してから、季節は何度も巡った。

春の桜が咲き、夏の蝉が鳴き、秋の稲穂が実り、冬の雪が降った。

そのたびに葵は駅に足を運んだ。

リキが戻ってくるのではないかと、淡い期待を抱き続けた。

けれどもリキは現れなかった。

駅のホームはいつもと同じで、ただ葵の胸に寂しさだけを残した。

時は流れ、葵は六年生になっていた。

背は伸び、表情は少し大人びてきた。

中学校への進学が決まり、春には親元を離れることになった。

「寮生活、大丈夫かい?」とお母さんが心配そうに尋ねる。

葵は笑って答えた。

「大丈夫。私、もう子どもじゃないから」

けれども胸の奥では、まだ小さな後悔が消えなかった。

あの日、リキを止められなかった自分。

どれだけ時間が経っても、その記憶は鮮やかだった。

「ごめんね、リキ……」

そうつぶやくたびに、胸がきゅっと痛んだ。

ペットを新しく飼おうという話も出なかった。

家族みんなが、リキのことを忘れられなかったからだ。

空いた居場所には、ずっと風が吹き抜けていた。

一方、リキもまた、孤独な日々を歩んでいた。

最終駅を離れ、見知らぬ町をさまよっていた。

匂いを頼りに帰ることができない。

ただ、耳と記憶だけを頼りに、一歩一歩進むしかなかった。

街の片隅で眠り、子どもたちが残したパンくずを口にする。

寒さに震えながら、朝を迎えることもあった。

通りすがりの人が「おい、あっちへ行け」と追い払うこともあった。

優しい人が「かわいそうに」と水をくれることもあった。

それでもリキの心は折れなかった。

ただひとつ、葵に会いたいという想いが支えだった。

夜空を見上げると、星が瞬いていた。

その光の中に、葵の笑顔が浮かぶ気がした。

「いつか、きっと」

そう心の中でつぶやき、また歩き出した。

雨の日も、雪の日も、リキは進んだ。

耳に響く町のざわめきを、必死に記憶に刻んでいった。

遠くから子どもたちの笑い声が聞こえると、立ち止まった。

その中に葵の声を探そうとした。

けれども、答えはどこにもなかった。

ただ風が通り過ぎていくだけだった。

葵は新しい制服を前に、不思議な気持ちを抱いていた。

「もう小学生じゃないんだ……」

家族と過ごす時間が減っていく寂しさ。

そして、会えないままのリキへの想い。

「きっと元気でいてくれるよね」

そう自分に言い聞かせながらも、涙がにじむ夜もあった。

リキは町から町へと移動しながら、とうとうある場所にたどり着いた。

葵の通っていた小学校だった。

門の前に立ち、耳を澄ませる。

子どもたちの笑い声があふれてくる。

そこに葵はいなかった。

すでに卒業し、別の道を歩み始めていた。

それでもリキは動かなかった。

「ここにいれば、きっと会える」

そう信じて、その場に腰を下ろした。

孤独な彷徨の果てに、やっと見つけた居場所。

だが、それは新しい試練の始まりでもあった。

葵がいない小学校での日々。

リキの孤独と葵の成長が、静かに交差し始めていた。

中学校への進学が決まり、春には親元を離れる

第六章:リキ、学校にたどり着き居場所を得る

小学校の門の前に、ひとりの犬が座っていた。

リキだった。

長い彷徨の末、ようやくたどり着いた場所。

耳を澄ませば、子どもたちの笑い声があふれてくる。

「ここなら、きっと……」

そう信じて、門を見上げていた。

しかし最初に待っていたのは、冷たい視線だった。

通りかかった先生が声をあげた。

「犬がいる! 危ないから追い払って!」

竹箒を持った用務員が近づいてきた。

「ほら、行け行け!」

リキは驚き、小さく身を縮めた。

慌てて門の外へと逃げ出した。

しかし、しばらくするとまた戻ってきた。

耳を澄まし、目を細め、門の中から流れる声を追い求めた。

翌日も、そのまた翌日も。

リキは諦めなかった。

雨の日も。

雪の日も。

門の横に座り続けた。

葵が現れると信じて。

それだけを支えに、体を小さく震わせながら待ち続けた。

子どもたちは次第にその姿に気づき始めた。

「ねえ、あの犬、またいるよ」

「昨日もいた!」

最初は怖がって近づこうとしなかった。

「噛まれるかも」

そんな声も上がった。

だが、ある日。

一人の女の子がパンの欠片を差し出した。

「……食べる?」

リキは吠えることなく、静かにしっぽを振った。

そして、そっとその手からパンを受け取った。

「わあ……食べた!」

子どもたちは驚き、そして笑顔になった。

次の日、別の子が水を差し出した。

また別の日には、お弁当の端を渡す子もいた。

リキは決して吠えなかった。

唸ることもなかった。

ただ静かに尻尾を揺らし、目を細めて座っていた。

その姿は、何かを待っているように見えた。

子どもたちは次第に囁き合った。

「待ってるんだね、誰かを」

先生たちも頭を悩ませていた。

「追い払っても戻ってくる」

「危害を加えるわけでもないし……」

ある先生はふと、リキの首輪に目をとめた。

「名前が書いてある……“リキ”か」

その瞬間、ただの野良犬ではなくなった。

誰かに大切に飼われていた犬。

誰かを今も待ち続けている犬。

校長は深いため息をつきながら言った。

「このまま見守ろう。子どもたちも慣れてきている」

そうしてリキは、少しずつ学校に受け入れられていった。

給食の余りをもらい、用務員が水を用意するようになった。

朝、子どもたちが登校すると、リキはしっぽを振って迎えた。

夕方、下校する子どもたちを静かに見送った。

まるで、それが自分の役目であるかのように。

いつしか子どもたちは言った。

「学校の犬」

やがてその呼び名は広がり、

「学校のマスコット」と呼ばれるようになった。

だが、リキが待っていたのはただ一人。

葵だけだった。

どの顔を見ても違う。

どの声を聞いても違う。

それでも耳を澄まし続けた。

「きっと、いつか」

ある日の放課後。

夕焼けに染まる校門の前で、一年生の男の子が言った。

「リキ、きみは誰を待ってるの?」

もちろん答えは返ってこなかった。

ただ、静かな瞳が門の向こうを見つめていた。

その姿に子どもたちは胸を締めつけられた。

「なんだか泣きそうになる……」

誰かがそうつぶやいた。

リキは校門の犬になった。

だが心の奥では、今も葵を探し続けていた。

新しい入学生がやってくる春。

暑さに蝉が鳴き響く夏。

落ち葉が舞い散る秋。

雪が積もる冬。

季節が巡っても、リキの習慣は変わらなかった。

毎日、門に座り続けた。

そしてその姿は、子どもたちの記憶に深く刻まれていった。

「この犬は、誰かを待っている」

「本当に、大切な誰かを」

その想いを知るのは、まだ遠くにいる葵ただ一人だった。

長い彷徨の末、ようやくたどり着いた場所

第七章 : 四季を越えて待ち続けるリキの姿

春。

校門の桜が咲き誇る頃。

新しいランドセルを背負った子どもたちが、嬉しそうに駆け込んでくる。

その横で、リキは静かに座っていた。

花びらが舞い散っても、動じることはなかった。

ただ門の向こうを見つめていた。

「リキ、今日もいるね」

子どもたちは笑いながら声をかけた。

リキはしっぽを振って応えた。

だがその瞳は、どこか遠くを探していた。

入学式の日。

親に手を引かれた一年生は、門の横の犬に驚いた。

「この犬、だれの?」

上級生が胸を張って答えた。

「リキだよ。ずっとここにいるんだ」

それが、毎年春の恒例になった。

新しい子どもたちはリキを知り、受け入れていった。

夏。

蝉の声が校舎を包む頃。

強い日差しがアスファルトを照りつける。

リキの毛並みは熱に焼かれ、舌を出して荒い息をついた。

それでもリキは門を離れなかった。

汗をかいた子どもたちが水筒の水を差し出すと、静かに飲み干した。

「がんばってるんだね、リキ」

小さな手が頭をなでた。

リキは目を細めた。

けれどもその耳は、相変わらず何かを探していた。

夏休みの間もリキは校門にいた。

誰もいない校庭。

セミの声と風の音だけが響いていた。

それでも、待ち続けた。

葵がふいに現れるのではないかと信じて。

秋。

落ち葉が風に舞う頃。

運動会の声援が響く校庭で、リキは門の横にいた。

太鼓の音、笛の音、笑い声。

葵の声を探して耳を澄ました。

けれども、どこからも聞こえなかった。

落ち葉の上に体を丸め、ひとりで夜を越えた。

木枯らしが吹き抜けても、動くことはなかった。

「リキ、寒くない?」

下校途中の子が、落ち葉を寄せてリキの周りに敷いた。

「これで少しは暖かいよ」

リキは小さくしっぽを振って答えた。

冬。

白い雪が校門を覆う頃。

リキの背中にも雪が積もった。

体を震わせながらも、門を離れなかった。

子どもたちは心配そうに毛布をかけた。

「寒いのに、どうしてここにいるの?」

リキは答えられなかった。

ただ静かに、門を見つめ続けた。

やがて雪の日には、先生が小屋を作った。

木の板で簡単に組まれた小さな屋根。

そこがリキの避難場所になった。

子どもたちは給食の余りを運び、リキに声をかけた。

「また明日も来るからね」

「元気でいてね、リキ」

四季が巡っても、リキは変わらなかった。

葵を待ち続ける姿だけが、そこにあった。

子どもたちが卒業しても、また新しい子どもたちが入学してきた。

校舎が少しずつ古びても、町が変わっていっても。

リキだけは変わらなかった。

晴れの日も、雨の日も、雪の日も。

門の横に座り続けた。

まるで時が止まったかのように。

「どうして、そんなに待ってるの?」

ある先生がぽつりとつぶやいた。

答えはなかった。

ただ、瞳の奥に宿る光がすべてを物語っていた。

──あの子を待っている。

その想いだけが、リキを支えていた。

年月が流れるたびに、子どもたちは大きくなり、学校を巣立っていった。

だがリキは巣立つことなく、門の横に居続けた。

その姿は町の人々にも知られるようになった。

「学校の犬」

「待ち続ける犬」

通勤途中の大人も足を止めた。

買い物帰りの主婦も声をかけた。

「今日もいるね、リキ」

誰もがそのけなげさに心を打たれた。

けれども、リキの本当の願いを知る人はいなかった。

ただひとり、葵を除いては。

だがその葵は、遠く離れた場所で新しい生活を始めていた。

リキの姿は、葵の知らないところで季節を超えていった。

そして時の流れは、容赦なくリキの体を蝕んでいった。

四季を超えて待ち続けるーーリキ

第八章:老いたリキ、学校に見守られながら最期を迎える

リキが校門に座り始めてから、何年もの時が過ぎた。

気づけば十五歳。

犬にとっては、十分すぎるほどの高齢だった。

かつては力強かった足取りも、今では重たくなっていた。

しっぽの振りも小さくなり、毛並みには白いものが目立ち始めていた。

それでもリキは、門を離れなかった。

葵を待ち続けるその姿勢だけは、変わらなかった。

先生たちは心配そうに見守っていた。

「もう歳だな……」

「動くのもしんどそうだ」

子どもたちも、胸を痛めていた。

「リキ、大丈夫?」

「ごはん食べてる?」

用務員が毛布を敷き、先生が餌を用意し、子どもたちが代わる代わる声をかけた。

リキはそのたびに小さくしっぽを振り、ありがとうと伝えるように目を細めた。

冬の寒さは特に堪えた。

雪が降ると、リキの体は小さく震えた。

そんなとき、子どもたちは自分のマフラーをそっとかけてやった。

「ほら、これで暖かいよ」

「リキ、がんばって」

リキは弱々しくも、その優しさに応えるように喉を鳴らした。

その音は、子どもたちの胸に深く刻まれた。

やがて、リキは外に出るのも億劫になっていった。

校門のそばではなく、校舎の影に腰を下ろすことが増えた。

それでも視線は変わらなかった。

必ず門の方を向き、耳を澄ませていた。

あの足音が聞こえるかもしれない──葵の声が届くかもしれない。

ある日、リキは立ち上がることができなくなった。

足が思うように動かず、ただ横たわるしかなかった。

子どもたちは駆け寄った。

「リキ!」

「しっかりして!」

先生もすぐに集まった。

「もう長くないかもしれない……」

その声に、場の空気が重く沈んだ。

リキは必死に目を開け、子どもたちの顔を一人ひとり見つめた。

そこに葵の姿を重ねるように。

「待ってるよ……」

そんな言葉が瞳に宿っていた。

子どもたちは泣きながら声をかけた。

「大丈夫だよ、リキ」

「ずっと一緒にいるからね」

その日から、学校中がリキを見守るようになった。

授業の合間に会いに来る子。

休み時間に水を飲ませる子。

下校の前に「また明日ね」と声をかける子。

みんなが、リキのそばに寄り添った。

リキは幸せそうに目を細め、弱った体を震わせながらも、しっぽを振った。

そして、その日が訪れた。

春の風が校庭を吹き抜ける、穏やかな朝だった。

リキは校門の見える場所に横たわっていた。

子どもたちと先生たちが周りを囲んでいた。

「リキ……」

誰かが小さな声で呼んだ。

リキは最後の力を振り絞り、耳をぴくりと動かした。

そして、ゆっくりと目を開けた。

校門の向こうに、葵の幻を見ていた。

小さなランドセルを背負い、「いってきます」と笑う姿。

リキはその幻に向かって、かすかにしっぽを振った。

そして深く息を吐き、静かに目を閉じた。

子どもたちは泣き声を上げた。

「リキー!」

「いやだ……行かないで!」

先生たちも目頭を押さえながら言った。

「よくがんばったな……」

「ありがとう、リキ」

その瞬間、学校全体が深い悲しみに包まれた。

しかし同時に、温かさもあった。

リキは孤独ではなかった。

大勢の仲間に囲まれ、愛されながら旅立ったのだ。

その日、校門の桜が風に舞った。

まるでリキを見送るかのように、花びらが静かに降り注いだ。

リキの最期は、記録として残された。

先生たちが日記に書き、子どもたちが絵を描き、思い出として大切にした。

「門を見つめ続けた犬」

「誰かを待ち続けた犬」

リキの姿は、学校の歴史として刻まれていった。

その記録は、後に多くの人の胸を打つことになる。

だが葵だけは、まだそのことを知らなかった。

遠く離れた場所で、リキの旅立ちを知らぬまま成長を続けていた。

ありがとうと伝えるように目を細めた

第九章:リキの記録と新聞に刻まれた物語

リキが旅立ったその日。

学校には深い静けさが広がっていた。

校門の横。

そこにいつもあった姿が、もういなかった。

子どもたちは登校してくると、思わず立ち止まった。

「リキ……いない」

言葉にした瞬間、胸が締めつけられた。

目の奥に涙を浮かべながら、校舎へと歩いていった。

教室では先生が語りかけた。

「リキは、みんなのそばで最後までがんばって生きました」

その声に、子どもたちはすすり泣いた。

机に顔を伏せる子。

声を押し殺して涙を流す子。

授業どころではなかった。

クラス全体が悲しみに包まれていた。

しかし同時に、誰もが感じていた。

リキは孤独ではなかった。

私たちがそばにいた。

そして、リキはずっと私たちを見守ってくれていた。

その想いを残したい。

先生たちはそう考えた。

一人の先生が日記をつけ始めていた。

リキが校門に座り始めた日。

追い払われても戻ってきた日のこと。

桜が舞う春の日。

蝉が鳴く夏の日。

雪が積もる冬の日。

一枚一枚、丁寧に書き留められていた。

その日記はやがて何冊ものノートに積み重なっていった。

「記録しておけば、忘れられない」

そう信じて、先生たちは書き続けた。

子どもたちもまた、思いを形にした。

図工の時間に描いたリキの絵。

作文に書いたリキとの思い出。

「いつも校門で待っている犬」

「やさしい目をした犬」

小さな言葉が、子どもたちの心に刻まれていった。

リキの旅立ちの日も、先生たちは詳細に書き記した。

「春の朝、校門を見つめながら静かに息を引き取る」

「子どもたちと先生に見守られながら」

その文字は涙でにじんでいた。

しかし確かに残された記録だった。

年月は流れていった。

子どもたちは卒業し、新しい世代が入学してきた。

先生たちも代替わりし、顔ぶれは変わっていった。

だが、リキの記録は引き継がれ続けた。

新しい先生に渡され、学校の歴史の一部となった。

「ここには、ひとりの犬の物語がある」

「子どもたちと共に生き、共に時を過ごした犬がいた」

やがて、二十年以上の時が過ぎた。

学校の古い資料を整理していた先生が、そのノートを手にした。

黄ばんだ紙に、丁寧な字で綴られた記録。

絵の具の跡が残るページ。

子どもたちの小さな字で書かれた作文。

ページをめくるたび、涙がこぼれ落ちた。

「これは、残さなければならない……」

その先生は職員会議で提案した。

「リキの物語を外に伝えませんか?」

同僚たちはうなずいた。

「多くの人に知ってもらうべきだ」

「この犬は学校の歴史であり、町の誇りだ」

そうして、地元新聞社に連絡が入った。

記者が学校に訪れ、ノートを広げた。

机いっぱいに並べられた記録。

子どもたちが描いた絵。

涙でにじんだ文字。

記者は深く息をのみ、言葉を失った。

「これほどの記録が残っているとは……」

何時間もかけて読み込み、質問を重ねた。

当時を知る先生の証言。

卒業生の思い出。

「確かにいつもいた」

「寒い日も、雨の日も、校門に座っていた」

「私たちの心に寄り添ってくれていた」

記者の目にも涙が浮かんでいた。

「必ず記事にします。多くの人に知ってもらいたい」

数週間後。

地元新聞に、小さな記事が掲載された。

「門を見つめ続けた犬、リキ」

そこには白黒写真が添えられていた。

ぼやけた写真だった。

だが、その中には確かにリキの姿があった。

門の横でじっと座り、遠くを見つめるリキ。

記事には、先生たちの記録が引用されていた。

「十五年間、校門を離れずに待ち続けた」

「多くの子どもに愛され、見守られながら最期を迎えた」

文章は淡々としていた。

しかし、その中に深い感動が宿っていた。

「尋ね人──この犬をご存じの方はいませんか」

最後にそう記されていた。

それは、まるで呼びかけるような言葉だった。

町の外にいる誰かに届くことを願うように。

記事は町の人々の心を揺さぶった。

「そんな犬がいたのか」

「すごいな……」

「なんて健気なんだ」

人々の会話の中で、リキの名前が再び呼ばれるようになった。

忘れられていたはずの犬が、再び町の記憶に息を吹き返した。

そして、その記事はある人のもとに届くことになる。

遠く離れた場所に暮らす、あの少女──葵のもとに。

彼女は四十歳を迎えていた。

忙しい日々に追われ、リキのことを心の奥に押し込んでいた。

だが、新聞の小さな白黒写真が、すべてを呼び覚ます。

「これ……リキ?」

その瞬間、時間が逆流するように記憶が蘇った。

桜のホーム。

別れの駅。

取り残した後悔。

葵の胸に、抑え込んでいた涙が溢れ出すのだった。

日記はやがて何冊ものノートに積み重なっていった

第十章:新聞記事を見た葵、再会の涙

その日の午後。

葵は仕事の合間に、友人から差し出された一枚の新聞を受け取った。

「ねえ、これ……あんたが前に言ってた犬じゃない?」

何気ない声。

だが、その言葉に心臓が跳ねた。

新聞の片隅、小さな白黒写真。

そこには、校門の横に座る一匹の犬の姿があった。

葵は思わず目を凝らした。

写真は粗く、はっきりとは写っていない。

しかし、その姿形。

座り方。

遠くを見つめる瞳。

一瞬で胸が締めつけられた。

「リキ……?」

記事の見出しには、こうあった。

「十五年にわたり、校門を見つめ続けた犬」

葵の目から、涙が止めどなく溢れた。

文字がにじみ、記事を読み進めることができない。

必死に目を拭い、震える指で紙面をなぞった。

「十五年間……校門で……」

走馬灯のように記憶が蘇った。

駅での出来事。

閉まるドア。

遠ざかるリキの姿。

あの日から葵の中に残り続けた後悔。

その答えが、いま目の前にあった。

リキは帰ってこられなかったのではない。

帰らなかったのではない。

ただ、ずっと待っていたのだ。

「私を……」

声にならない声が漏れた。

記事には詳細が記されていた。

学校で暮らすようになったこと。

子どもたちに愛され、見守られたこと。

そして、春の日に旅立ったこと。

「……知らなかった」

葵は唇を噛みしめた。

三十三年。

長すぎる年月。

その間、リキは葵を待ち続けていた。

胸の奥に張り付いていた記憶が、一気に溢れ出した。

「会いたい……いますぐ……」

居ても立ってもいられず、葵は新聞を握りしめた。

震える手で学校に電話をかけた。

「もしもし……あの……新聞の記事を見たのですが……リキのことを……」

受話器の向こうで、少しの沈黙があった。

そして優しい声が返ってきた。

「もしかして……あなたが……?」

その一言で、葵の涙が再びあふれた。

「はい……私が……私がリキの家族です……!」

数日後。

葵は学校を訪れた。

門の前に立つと、胸が震えた。

「ここなんだ……リキが待ち続けた場所……」

何度も何度も、リキはこの景色を見ていた。

桜の春。

蝉の夏。

落ち葉の秋。

雪の冬。

そのすべてを、この門で過ごしていたのだ。

校長先生に案内され、校長室に通された。

机の上には、分厚いノートが積まれていた。

リキの記録だった。

「これは……」

葵は震える指でページをめくった。

そこには、一日一日のリキの姿が記されていた。

「今日も門に座っていた」

「子どもたちの声を聞き、しっぽを振っていた」

「雪に埋もれながらも、動かず待ち続けていた」

読み進めるたびに、涙が落ちた。

文字がにじみ、ページが濡れた。

「リキ……ごめんね……」

「ずっと……待っててくれたんだね……」

先生たちが静かに頷いた。

「彼は本当に、あなたを待っていたのだと思います」

子どもたちが描いた絵も残されていた。

笑顔のリキ。

門に座るリキ。

雪に覆われるリキ。

どの絵も、温かさと切なさに満ちていた。

葵は顔を覆い、声をあげて泣いた。

「リキ……ごめんなさい……そしてありがとう……」

涙が止まらなかった。

胸の奥に押し込めていた想いが、一気に溢れ出した。

先生は言った。

「リキは最後まで校門を見つめていました。きっと、あなたを想いながら」

葵は目を閉じた。

門の前に座るリキの姿が浮かんだ。

振り返ることなく、ただ前を見つめ続ける姿。

「私を……信じていたんだね……」

葵の声は震えていた。

長い年月を経て、ようやく辿り着いた答え。

リキは裏切られていなかった。

待ち続けることで、絆を守り続けていた。

葵は校庭に出て、門の前に立った。

そこにはもうリキの姿はなかった。

だが、確かに存在していた気配があった。

風が吹き、桜の花びらが舞った。

その一枚が葵の肩に落ちた。

「リキ……」

葵は空を見上げ、涙を流した。

もう二度と会うことはできない。

けれど、心の中で再会できた。

「ありがとう。もう、離れないから」

そうつぶやいた瞬間、胸の奥に温かさが広がった。

それはリキが寄り添ってくれているような、不思議な感覚だった。

長い年月をかけて、ようやくリキと葵は再会したのだった。

これ……あんたが前に言ってた犬じゃない?

エピローグ:語り継がれるリキの物語

校門を見上げながら、葵は深く息を吸った。

もうそこにリキの姿はなかった。

けれども、確かに気配はあった。

幾千もの朝を見つめ、幾千もの夕暮れを越えて、そこに座り続けた影があった。

葵はそっと目を閉じた。

ランドセルを背負っていたあの日の自分が浮かんだ。

そして、横に並ぶリキの姿も。

「ただいま……リキ」

心の中で呟いた。

涙がまた頬を伝った。

しかしその涙は、悲しみだけではなかった。

感謝と温もりの涙でもあった。

校長先生が静かに言った。

「彼の物語は、これからも学校で語り継がれます」

葵は頷いた。

「私も……語り継ぎます。絶対に」

家に戻ると、机の上に新聞の記事とノートを置いた。

写真は粗く、文字は小さい。

けれども、その一つ一つが宝物だった。

夜。

窓から月明かりが差し込んでいた。

葵はその光に向かって話しかけた。

「リキ……会いたかったよ」

「待っててくれてありがとう」

その声は静かに夜空へ溶けていった。

まるで、遠いどこかでリキが耳を傾けているかのように。

年月はさらに流れた。

葵は家庭を持ち、子どもを授かった。

ある夜、娘が尋ねた。

「お母さん、どうして犬を飼わないの?」

葵は少し黙ってから、微笑んだ。

「昔ね、大切な犬がいたの」

そして語り始めた。

小さな町での暮らし。

駅での別れ。

校門で待ち続けた姿。

子どもは目を丸くし、やがて涙を浮かべた。

「その犬……すごいね」

葵は娘を抱きしめ、囁いた。

「そう、すごい犬だった。私の家族で、私の一番の友達だった」

リキの物語は、血のつながりを超えて受け継がれていった。

絵本のように。

歌のように。

そして祈りのように。

ある日、葵は再び母校を訪れた。

校門の横には、小さな石碑が建てられていた。

「リキ ここで待ち続けた犬」

花が手向けられ、子どもたちが集まっていた。

石碑に手を合わせる姿を見て、葵は胸が熱くなった。

「ありがとう……忘れないでいてくれて」

校長先生が微笑んだ。

「彼はもう、この学校の一部です」

葵は石碑にそっと触れた。

その冷たさの奥に、確かな温もりを感じた。

「リキ、これからも一緒だよ」

夕暮れが校庭を赤く染めていた。

風が吹き、葉が舞った。

その音は、リキの足音のように響いた。

葵は微笑みながら涙をこぼした。

悲しみではない。

永遠に結ばれた絆の証だった。

──時がどれほど流れても、

愛は消えることはない。

一匹の犬が待ち続けた年月は、

人の心に「信じること」「愛すること」を教え続けた。

そしてその物語は、葵から子へ、子からまた次の世代へと受け継がれていく。

リキはもういない。

けれども、心の中で永遠に生きている。

「リキ……ありがとう」

最後の涙を拭い、葵は空を見上げた。

そこに輝く星のひとつが、優しく瞬いた。

まるでリキが笑っているかのように。

リキ…あいたかったよ。待ってくれてありがとう!



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「もう一度会いたくて――命が託した 最後の祈り」
『コタローとサクラ──涙で結ばれた絆』
ゆるっと動画部屋
法人18年目の、しぶとい社長です。日々の中で見つけた「気づき」や「学び」を、そっと置いていくチャンネル。見る人の心に、ほんの少しでも何かが灯れば、それで十分です。
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